第70回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年2月3日
「人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。それ以上でもそれ以下でもない。これは人間の仕事である。」
中村 哲 医師
第31回院長カフェでも書かせていただきましたが、中村先生は福岡出身で九州大学医学部を卒業されました。私も同郷であり、中村先生のご講演は何度か聞いたことがあります。朴訥な話しぶりながら、強いメッセージを覚えています。蝶が好きで、たまたまネパールへ蝶探しの旅をした時、現地の方が医師であることを知り診療を依頼されたそうです。その後、日本での医師生活をやめ、1983年からアフガニスタンで無償診療と水路の建設をされました。中村先生は、2019年12月4日、アフガニスタンで銃弾に倒れました。
最近、中村先生を偲んで映画が作られています。「医師 中村哲の仕事・働くということ」の中で先生は「働くとは何か?」「仕事とは何か?」を説いておられます。我々医療人の仕事は、まぎれもなく人のために働き支え合うこと。その神髄を貫いた言葉だと思いました。そして、映画「荒野に希望の灯をともす」では、先生がアフガニスタンの灯になったことが語られています。我々は、まさに生と死を分ける厳しい現場で仕事をしています。そこにどんなに小さくても良いから、自ら希望の灯をともし明るくしていきたいと思っています。
これからも、混沌とした時代の中で、ますます輝きを増す中村先生の生き方を学ばせていただきます。
第69回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和7年1月15日
「お前は長州人か?薩摩人か?違うだろう。お前は日本人じゃないのか。」
1866年 薩長同盟が頓挫しかけた夜、竜馬が泣きながら桂に言った言葉
薩摩Studentの面々(ロンドンで撮影、全員では無い)
参考 鹿児島国際大学ミュージアム調査研究報告16 2019年より
昨年12月に学会で鹿児島へ行きました。鹿児島中央駅を降りると、「薩摩Student」と呼ばれる若い19名の銅像があります。彼らは1865年ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンへ留学しました。鎖国時の事ですから、これは完全に極秘の違法留学です。その2年前の1863年長州藩は、ロンドンへご存知の「長州Five」を送っています。
実は、彼らはロンドンで偶然出会っていました。驚いたでしょうね。当時戦争中の両藩ですから、最初はわだかまりがあったでしょう。しかし、次第にお互いを受け入れ、深く信頼していきます。でも、なぜ、彼らは仲良くなったのか?それは遠い異国の地で、「自分達は日本人だ」と感じたからです。母国日本よりも一足早く、ロンドンで薩長同盟が結ばれていたんですね。
竜馬のこの言葉を思い出しました。泣きながら叫んだ竜馬のこの一言で、薩長同盟は成立します。竜馬は故郷土佐を捨てた時から、自分は日本人だと意識していたのでしょうね。幕末から明治維新に向かう潮流を作った薩摩藩と長州藩、熱い思いを持った若者が、英留学から帰って明治政府をしっかり整えていきます。そんな熱い気概を、今の若い医師にも持ってもらいたいと願っています。今回も医学と少し離れてしまいました。
第68回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年11月13日
良寛和尚
江戸時代を代表する禅僧
良寛様は、江戸時代後期に越後に生まれました。先日学会で新潟へ行った時、宿泊したホテルに「良寛のことば」が掲げられており、新潟ご出身と初めて知りました。大変良い言葉でしたので、この写真を撮りました。
いくつか、私の反省を言います。あまりしゃべり過ぎないことです。適度が人に好かれます。多すぎると嫌がられ、友人が減ります。知らない事を知ったかぶりするのは良くありません。謙虚に、うそをつかず、正直に生きるべきです。挨拶は心を込めてすべきです。その一日がとてもすがすがしくなります。言ったことに責任を持ちましょう。特に、医療人の言葉は重たいと知るべきです。
第67回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年11月13日
「人が生きている間、もっとも大切なのは出処進退である。そのうち進むと出づるは人の助けが要るが、処ると退くは、人の力を借りずともよく、自分でできるもの」
河井継之助
学生時代、司馬遼太郎の「峠」に感銘し、何回も何回も読み直しました。主人公「河井 継之助」は全国的ではありませんが、ご存知の方もおられると思います。一度、お読みになられてはいかがでしょうか。
継之助は若い時に新潟の「峠」を超えて、いろいろな師匠の元へ留学します。幕府が倒れ、薩長の新政府軍が越後に攻めてきました。継之助がすごいのは、圧倒的に強力な兵器を準備しながらも、それを使わなくても長岡の人々が救われるように中立和平の道を目指した事です。しかし、時代はそれを許さず、壮絶な北越戦争に突入していきます。太平洋戦争を最後まで反対した軍司 山本五十六も同じ長岡出身で、継之助の思想を引き継いでいたかもしれません。
第66回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年8月27日
「我々が作る義足は、身体だけ支えるのではありません。心を支える足が作りたい。」
ガザ地区で、がれきから義足を作るサラハ・サルミさん(36)とムハンマドさん(25)兄弟
ガザ地区は戦火が激しくなるばかりです。爆発に巻き込まれ、1000人以上の子供が手足の切断を余儀なくされています。子供たちには何の責任もないのに、悲しいくらい悔しいです。
ガザに住むサラハ兄弟。兄は作業療法士、弟は技師として働いていました。目の前には数えきれない負傷者が苦しんでいます。そして、2人は周囲のがれきの山を見て「これで義足ができないだろうか?」と思ったそうです。手ごろな形の木や下水管の一部を使い、プラスチック部を火であぶって採型し足の断端に合う様にしました。
サラハ兄弟の義足は、確かに使い心地は良くないでしょう。でも、けがをした同胞の人々へのために、という気持ちは十分にこもっています。「けがをしていない自分でも苦しいのに、手足を失った人たちの絶望はもっと深いはずだ。心を支える足が作りたい。」サラハ兄弟が作った義足が、負傷者の心も支えられる様に祈っています。そして、患者さんがこの義足をはいて、パラリンピックの100m走を走れば、世界の人々の心も動かせると思います。一刻も早く無意味な戦闘をやめるべきです。
第65回 院長の医学ちょっと良い話コラム 令和6年8月20日
「ゴルフは、生きがいです。」